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洋画は日本室内の装飾品として欧風室内のそれに於けるが如く其建築と |
相俟って果して好く適合するや否やとは屡々(しばしば)吾等同好者の |
話頭に上る問題なりき。 |
友人加藤左一郎君は英華と號し我が横浜に於ける水彩画家にして曩(さ |
き)に故久保田米僊画伯の門下にあり邦画に研鑚を重ねしも更に轉(て |
ん)じて水彩画に心血を濺(そそ)ぎし以来獨力奮励自然美の研究に力 |
め幾度か信越奥羽の峻嶮を踏破し雄大豪宕(ごうとう)なる山容水態を |
極め或は明媚なる瀬戸の海典雅なる奈良の都亦は満山血潮と燃ゆる秋の |
日光塩原等凡そ名ある勝地にして1として君の画嚢(がのう)に入をさ |
るはなく君が画室は常に是等の画材を以って堆(うずたか)きを致し年 |
毎に来遊する欧米の外客にして此の種の趣味を有する者親しく君が画室 |
を訪ね作品の1本を獲んとする者多き亦故なきに非らずと云うべし然れ |
も未だ洋画を以て日本室内の適当なる装飾品として其作品を提供せる画 |
家あるを聞かず。 |
君常に之れを慨し意匠惨憺年を重ね辛酸を嘗め幾度か失敗に帰せしも堅 |
忍なお研究を怠らざりしか今や初めて其の所信を明らかにするを得て之 |
を日本画と共に室を同じうして相対比し更に撞着するなきの作品を出す |
ことを得たるは1は君が日本画に造詣深きの致す処なりといえども是を |
大成せるの熱誠に至っては亦大いに称賛すべきにあらずや。而してこの |
小冊子中挿入せる絵画は君が作品の2,3を写真せるに過ぎず諸君若し |
是に生気あり色彩あるヱを瞑想し而してそか如何に本邦の瀟洒なる亦典 |
麗なる室内の装飾に調和するかを黙想せば盖し清興の自ら湧出するもの |
あらん。 |
之れ吾等が君の作品を以って敢えて江湖に推薦する所以なり。 |
若し夫れ君の揮毫を望むに先立ち君の作品を鑑賞せんと欲せば乞う。 |
君の画室を訪れ幾多既成の作品は或は華麗に或は素朴に装飾せられ按排 |
せられて以って諸君の来観を待つべし。 |
明治四十二年三月 |
発起人 奥田義人/久保田米斎/小林桂助/小岩井義八 |
補 助 岡田三郎助/和田英作/久保田金僊/永井鳳僊 |
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上記の原書は画会1、
画会2及び画会3で確認できます。 |
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以下はその時の説明文内容ですが、文字は現代語に修正してあります。 |
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わが国水彩画界に、一生面を拓き、斯界に巨大な足跡をのこされ、且つ支那研究 |
畫家として知られた加藤英華畫伯の近業鑑賞のため当百貨店美術部では大阪毎日 |
広島支局後援の下に同畫伯の近業、主として支那方面の写生展覧会を11日から |
3日間別館4階で開催することとなりました。同畫伯は福井藩の出身、小豆澤亨 |
氏に水彩画を、久保田米遷画伯の門に入って邦画を研鑚し、さらに転じて水彩画 |
の一生面を開くため心血を濺ぎ、水彩画をして日本画とともに室を同じうして相 |
対比し、さらに撞着するなきの作品を制作し得るまでに独自の芸術境を創造開拓 |
された水彩画の大家であります。同画伯は香港上海に常住20数年、支那、印度 |
、南洋を遍歴、書嚢を肥やして帰朝、その間上海でショウ氏に知られ、あの皮肉 |
家のショウが画伯独自の明朗新鮮な、しかも東洋的芸術を多分に取り入れた画風 |
を愛し推賞10数本を購い、また香港陸軍参謀長トローク閣下は自ら画室を訪れ |
て、その作品を求むるなど、外人間にその聲名を謳われ、内地にあっては先年コ |
ンノート殿下のお買い上げの光栄に浴し、故奥田東京市長、故花井卓蔵博士、小 |
岩井義八氏などを初め岡田三郎助、和田英作、三宅克巳、加藤玄智博士の諸氏は |
推讃の辞を送って江湖に紹介せる事実によっても画業の一端を窺うことが出来る |
のであります。洋画を以て日本室内の装飾品として新生面を拓き、技法の生彩と |
独自の画境を開拓された業績については前記諸大家の推賞も敢えて過褒でなく、 |
再度同画伯の個展を開くに至った所以もここにあります。作品は同画伯が支那か |
ら印度にかけて苦難と闘い得た貴い収獲のみで、主催者及び後援者ともに多少の |
衿恃を持っているものであります。切にご清鑑をお勧めするとともにご後援を祈る |
次第であります。 |